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2013年8月24日土曜日

ヌーヴ・シャペルの戦い

ジョン・ファウルズの魔術師という本があります。その中で主人公に謎の老人が自分の経験談としてヌーヴ・シャペルの戦いを語るくだりがあります(小説の時代は1953年)。作者の語り口があまりに上手なのか、その場面描写がオイラの脳裏に焼き付いてしまいました。そういう次第で実際のところどんな戦いだったのか興味を抱くようになりました。それは第一次大戦が始まった翌年1915年にフランス北東部のヌーヴ・シャペルという廃虚となった村であった戦闘です。そのすぐ北30kmに位置するイーペルの戦いでは1915年5月に毒ガス戦がありましたが、その2ヶ月前のヌーヴシャペルでは毒ガスは使われていません。英軍第7、第8師団とインド部隊のラホール師団、メーラト師団が加わった戦闘は3月10日に始まりました。戦線は約7kmに渡り、その突破作戦から開始されました。まず、魔術師十九章から

夜明け前、私達は前進を開始して、何度も立ち止まりながら、突撃地点まで辿り着きました。モンターギュ大尉が参謀と話しをしている声が聞こえました。第一軍はヘイグ旗下で、第二軍は、その援護にまわるのだ、と。私は、それなら安全だという、そのような大軍に対する安堵感とでも云う感覚に捉えられました。次いで私達は塹壕に入りました。小便の悪臭がするひどい塹壕でした。その時、私達のすぐそばに砲弾が落ちてきました。私にとっては初陣でしたので、それまでの、いわゆる訓練なるものや、あらゆる宣伝情報にも関わらず、だれかが私を殺そうとしているなどとは、にわかにはとても信じることができませんでした。私達は、塹壕の壁を背にしてじっと立っているよう命令されました。砲弾のシュルシュル、ガーンという爆発音、静寂、次いで土がバラバラと降ってきました。震えながら私は平和の眠りから眼を覚ましたのです。
中略++++++
東の空に、いやいやながらのように光が拡がり始め、霧雨が止みました。塹壕の外側のどこかから、鳥の声が聞こえてきました。別の世界からの最後の声、私にはそれがある種の雀の声だと分かりました。我々はさらに前進して別の突撃用塹壕に入りました。そこには第二派攻撃を準備中のライフル旅団がいました。ドイツ軍の塹壕までは、そこから二〇〇ヤードもありませんでした(1ヤードは約0.9メートル)。私達の最前線の塹壕は、ドイツ軍の塹壕から一〇〇ヤードしか離れていなかったのです。モンターギュは時計を見て、手を上げました。完璧な静寂。彼の手が振り降ろされました。十秒間程は何も起こりませんでした。その時、私達のはるか後方で、巨大な太鼓、あるいは数千のティンパニーを叩くような音がしました。一瞬の後、眼前の風景が爆発しました。誰もが体を伏せました。大地や空、そして精神、あらゆるものが揺れました。あなたには、その最初の数分間の砲撃がどのようなものか想像することは無理でしょう。それは、今でも語りぐさになるほどの、最初の大規模な大砲による弾幕だったのです。
中略++++++
三十分後、弾幕は村の向こう側まで達しました。私達が前進する番になりました。歩くのが困難でした。前進するにつれて、恐れは恐怖に取って代わられました。しかし、私達に発砲する者はいませんでした。しかし地面は次第に見るも恐ろしいものになってゆきました。原形をとどめぬ、ピンク、白、赤色、の泥まみれになった物は、まだ、灰色やカーキ色のボロを着けていました。我々は自軍の最前線の塹壕を越え、無人の大地を横切りました。ドイツ軍の塹壕に到達しても、何も無りませんでした。すべては、土に埋まってしまったか、吹き飛ばされてしまったかでした。
中略++++++

という約500門の大砲の弾幕を利用した最初の戦いだったようです。戦線は1.5kmに渡って破られ、この戦略は成功したかに思われたのです。作戦に参加したイギリス軍主力は6万人、対するドイツ軍はその七分の一の人員でした。イギリス軍はヌーヴ・シャペル村に達しました。当時の軍隊の戦闘単位は第二次大戦の小隊単位(30人程度)では無く、中隊単位(100人程度)で、その上命令する本部が後方にあるため、前線で何か行動を起こすにも、その度に本部に連絡をとらないといけません。当時は無線なんて便利な物はないので、次の行動に移るまでに第二次大戦の頃には考えられない程相当の時間を要したようです。イギリス軍が戦線を突破して2時間後、ドイツ軍は部隊を立て直しつつありました。当時のドイツ軍の戦術指示書には、敵に戦線を突破された場合には予備軍を使って突破箇所の側面に回り込み、破られた穴を塞ぐべし、とあったようです。そのドイツ軍の中にイエーガー部隊というマシンガン部隊がおりまして、彼らがイギリス軍左翼から側面攻撃をかけたのです。イエーガー部隊の2丁のマシンガンが火を吹き、第2スコットランドライフル部隊と第2ミドルセックス部隊の兵士達、数百人が犠牲になりました。一方、英軍右翼は、塹壕戦の戦場ではよくある事なのですが、道に迷ってしまったのです。さてここから魔術師の物語に戻ります。

その後の日中は待機のまま時間が過ぎました(訳注:前進命令が出るまで六時間程待機)。我々にはオベール高地(訳注:ヌーヴ・シャペル村の東2kmにある)を攻略する命令が下されました。我が軍は最前列でした。午後三時半ちょうどに銃剣を装着しました。我々は前進を開始しました。モンターギュと軍曹はせわしげに声を出して隊列を保とうとしました。我々は砲撃でクレーター状の穴だらけになった場所を横切ってポプラの垣根まで達し、その向こうにいる敵までもう一つ別の場所を横切る必要がありました。私は進まないといけない半分の距離まで進んだ自分を想像していました。やがて、我々は急に駆け足になりました。叫び始めた者がいました。ドイツ軍はまったく発砲しないのではと思われました。モンターギュは勝利の叫びをあげました。『突撃しろ、貴様ら!勝利だぞ!』 それが、私の聞いた彼の最後の言葉でした。罠だったのです。五〜六台の機関銃が我々をまるで、草を刈るかのように、なぎ払いました。モンターギュはクルクルと回転しながら私の足元に倒れました。彼は仰向けに地面に倒れ、私を見ていましたが、その片方の目はどこかに消えていました。私は彼の傍で立ち尽くしました。周囲は飛び交う弾丸で溢れていました。私は泥の中に自分の顔を埋め、失禁していました。しかし、それは私が殺されるであろう瞬間にも、そうなるであろうと思われる事でした。私のそばに誰かが来ました。それは軍曹でした。誰かが後方で銃を撃っていましたが完全な盲打ちでした。絶望的でした。私には彼が何故そんな事をしたのかわからないのですが、軍曹はモンターギュの死体を後方へと引きずり始めたのです。訳も分からず私は彼の手助けをしようとしました。私達は小さなクレーターの中に転がり込みました。モンターギュの後頭部は吹き飛ばされていましたが、彼の顔は口を大きく開けて、まるで睡眠中に笑っているものかのような、馬鹿がするような笑い顔をしていました。その表情を私は忘れることができません。  銃撃が止みました。すると、恐慌をきたした羊の群れのように、生き残った者全員が村の方角めざして逃げ出し始めました。わたしも同様でした。腰抜けという意識さえ消し飛んでいました。逃げる途中でも沢山の兵士が背中を撃たれました。そして、私は負傷もせず、また生きたままで出発した塹壕まで辿り着いた数少ない者の一人になっていました。我々がそこにいたのでは、遅かれ早かれ砲撃に遭う運命でした。友軍からのね。悪天候のため、砲撃は盲打ちだったのです。あるいは砲撃計画が前日に立案されたものだったかも。それこそが戦争そのものなのです。
中略++++++

そんな右往左往するイギリス軍に対して、幸いな事にドイツ軍の砲兵中隊には弾薬が不足していたのです。午前11時30分、イギリス軍の砲撃はイエーガーマシンガン部隊に向けられ、1000人の英軍兵士を殺したドイツ将校1人と63名の兵士が降伏しました。そうやってイギリス軍が前進を再開できたのは夕方の六時になってだったのだという事を書いている書物もあります。しかし三月の午後六時はもう夜です。ここは物語の中の通りに、主人公が出撃したのは午後三時半が正しいという気がします。少し早い時間に東のオベール高地に向かって行ったのでしょう。そこにドイツ軍の防衛拠点があって戦闘になった。魔術師の中では、辛くも戦闘で生き残った語り手が戦線を離脱してドーバー海峡を渡り故郷に戻ったものの、ついに闇に紛れてイギリスを脱出する事になります。

ここで、補足しておいた方が良い事があります。それは夜間戦闘についてです。夜間は射撃目標の確認が困難なため通常は戦闘が行われなかったようですが、それは曳光弾が開発されるまでの事です。曳光弾とは弾自体が発光して軌跡を残し、どの方向へ弾が飛んでいるのかを目視できるようにする物です。最初の曳光弾は1915年にイギリス軍が開発したのですが、いい加減な方向へ飛んでゆくため、あまり実用的な物では無かったようです。しかし、1916年には"SPG Mark VIIG"という曳光弾が開発され、夜間戦闘が行われるようになったようです。もちろん現代ではもっと便利な暗視装置などもありますしね。話を元に戻しますと、ヌーヴ・シャペルの戦いがあった1915年当時は夜間戦闘は通常なかったという事です。

記録では、その翌日は戦場一帯に濃い霧が立ち込めて、前進できなかったようです。

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