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2014年12月6日土曜日

戦火の馬

「戦火の馬」という第一次世界大戦を舞台にした映画を観ました。最後の方は時間が無かったのか、それとも物語が尽きたのか、省略があったせいで嘘っぽくなってしまい興醒めする場面もありました。とはいえ馬が重要な戦略品だったのは間違いなかったのです。

政治家達は戦争への危惧に心を奪われ、一方で戦争参加国の首都では一般大衆が宣戦布告を熱狂的に歓迎した。通りを埋め尽くした群衆は叫び、微笑み、そして愛国歌を歌った。セント・ペテルスブルグではフランスの外交官モーリス・パレオローグが冬の宮殿広場への道すがら次のような光景を目撃した。「旗や吹き流しやロシア皇帝のイコンや肖像画を手にした無数の群衆が、ロシア皇帝がバルコニーに登場するや、すぐに全員が膝をついてロシア国歌を歌った。この時、膝をついた数千人の群衆にとって、ロシア皇帝こそ、軍事的・政治的・宗教的な意味で人々の指導者であり、肉体と魂の絶対的支配者、神に指名された真の独裁者だった。」その日は8月2日だった。8月1日にもババリア王国の首都、ミュンヘンのオデオンズプラッツに群衆が集まり、宣戦布告を聞こうとした。その中に若き日のアドルフ・ヒットラーがいた。彼は「その瞬間の熱狂にうち奮えている自分が誇らしかった。それから私は膝をついて、このような時代に自分を生まれさせてくれた神に心よりの感謝を捧げたのだ。」その頃、ベルリンでは、灰色の戦闘服に身を包んだカイザーがバルコニーに現れ、騒然とした群衆に向かって次のように言った。「ドイツに運命の時が訪れたのだ。我が国を狙う国々からドイツ防衛のため我々は立ち上がるのだ。戦いの剣は我々の手に委ねられた。皆に命ずる。教会へ行き、我が軍に神のご加護を祈るのだ。」ベルリン大聖堂では牧師が礼拝に集まった人々に詩編130番の朗唱を主導し、オラニエン通りのシナゴーグではラビが勝利の祈りを主導した。8月5日にはロンドンでも同じような状況が発生した。パリでは東部と北部へ動員される連隊の出発式があった。歩兵連隊の将校は次のように記している。

「午前6時、列車は汽笛を鳴らす事なくゆっくりと駅を出発した。くすぶっている火が突如うなりを上げて火炎を発したかのような壮大などよめきが、幾多の人々の口々からフランス国歌のラ・マルセイエーズの轟が巻き起こった。兵士達は全員が汽車の窓際に立ち帽子を振った。それに応えて線路上から、駅のプラットフォームから、隣の汽車の窓から皆々が手を振った。集まった群衆は全ての駅、柵の向こう側、道路に沿った家々の窓に立っていた。”フランス万歳。軍人さん万歳。”と叫ぶ声が至る所で聞こえ、人々はハンカチや帽子を振っていた。女性達は道行く私達の隊列にキスや花を投げかけてくれた。若者達は”さようなら!またね!”と叫んでいた。」

すぐに多くの若者達に召集令状が届けられた。そのような令状には無縁の予備役兵にも動員命令が出された。大抵の軍隊では出頭予定日までの幾日間は家族や雇い主に別れを告げる「自由日」となっていた。フランスの偉大なる歴史家、リチャード・コッブは次のように書いている。「完璧な異邦人だったんじゃないかな。というのも、パリっ子が全員一夜にして不思議の国のアリスの中の登場人物みたいになっちまってね。異次元のカレンダーの中で日々をトランプに明け暮れていたのさ。”今日は何の日だい?”すると別の奴が”俺は一日目さ(新兵狩りに遭っちゃったみたいさ)。”、”俺は九日目さ(不運だぜ、そん時までにゃ、全てが終わっちまってるだろうから、お前さんにゃ何の楽しみも残らないって寸法さ)。”、”俺は三日目さ。だからあまり長く待たなくてもいいのさ。”、”俺は十一日目さ(お前さんは、そんなに早くベルリンを落せやしまい)。” ドイツ軍の予備役士官候補生は、どのようにして入隊までの日々を過ごすのかを、もっと散文的に説明している。その人物はアントワープ在住のビジネスマンで、彼が動員二日目に最寄りの野戦砲兵連隊に出頭し上申しなければならない内容とは次のようなものでした。

八月三日に自分がブレーメンに到着した時、家族は半狂乱でした。それは彼らがベルギーが陥落し私が銃弾に倒れたものと思っていたからでした。八月四日、予備役兵として軍に出頭した時、自分は予備の野砲第18連隊に所属しているのだと告げられました。その連隊はハンブルグから約75マイルの距離にあるベーレンフェルドにありました。家族は自分達の集合場所の建物に近寄る事はできませんでした。自分はできるだけ素早く、近くの子供に家族への伝言を託しました。家族は列車の駅のプラットホームにも立ち入る事が出来ませんでした。ただ、自分達に葉巻や煙草やキャンディーを手渡す赤十字の職員を除いては。兵員輸送列車の中でボートやテニスを一緒にやった友人達と再会する事が出来て幸運でした。八月六日、自分が今まで着た事のない灰色の制服が支給されました。その色は緑色を帯びた灰色で、くすんだ色のボタンが付けられていました。ヘルメットには灰色の布が被せられていました。それはヘルメットの上にある飾りが太陽の光を反射させないようにするための処置でした。長い騎乗靴は茶色で大変に重いものでした。兵士は全員、大抵の将校も予備役でしたが、司令官は正規の将校でした。たたき上げ将校は全員正規兵でしたが、兵馬は予備役でした。馬主は、狩猟家やサラリーマンや農民でしたが、彼らは定期的にそれを報告する義務があり、軍はいつでも、どこにどんな馬がいるのかを把握していたのです。

人間と同様に馬も八月の最初の一週間でヨーロッパ中から何十万頭という数がかき集められていました。小規模とされる英国の陸軍ですら、騎兵用、野砲の牽引馬、あるいは兵員輸送用の荷馬車のために165,000頭の馬が集められたのです。オーストリア軍は600,000頭、ドイツ軍は715,000頭、ロシア軍に至っては24の騎兵師団に100万頭を超える馬が集められたのです。1914年当時の軍隊というものは、ナポレオンの頃と同程度に兵馬を必要としていたのです。担当将校達は馬と兵士の必要割合を兵士3人に対して馬1頭程度と算出していました。第12ブランデンブルグ近衛連隊の予備役将校だったウォルター・ブルームはシュッツガルトへの動員命令を受け取ると、フランス国境のメッツ行きの汽車で荷物を発送する前に「トランクと茶色の雑嚢と馬具類の入った2個の箱に”軍需用荷物・速達”と書かれた赤いラベルを貼付け」て彼の所有する2頭の馬用に出来る限りの荷物を鞄に詰め込んだのです。

列車は1914年に戦争に行った全ての人々の記憶に刻まれているものでした。ドイツ参謀本部の鉄道部門は動員令の頃には11,000台の列車の時刻表を作成し、8月2日から18日の間だけでもライン川に架かるホーエンゾレルン橋を最低でも54両編成の貨車2,150台が通過しました。フランスの主要な鉄道会社、Nord, Est, Quest, PLM, POMは1912年5月以後、兵員動員のために7,000両の列車を用意する計画がありました。戦争開始に向けて多くの物が列車で集められたのです。

ムランからパリに入ってきた旅行者は、動力部を外され空になって動かない列車の異様な光景に目を奪われたものだ。時としてそれは様々な貨車を連結したものだったりしたのだが、別の会社の貨車が連結されていたりしており、旅客用貨車は護衛用貨車に連結され、それら多くの貨車に横にはチョークで印が描かれていたが、その全旅程セーヌ川からマルヌ川の県庁所在地を経て列車がリヨン駅に近づくまで、ひたすら我慢しなければならなかった。同じように奇妙な光景はフランス北部の旅行者達に目撃されている。それはクレール駅にある無数の側線に煙を上げる事も無く停車させられた何百ともつかぬ機関車の姿だった。

そのような列車が長く放置されているわけがありませんでした。すぐに列車は動きだして何十万人もの若者を詰め込み、時速10から20マイルで走行し退屈な距離を進んだかと思えば不意に停車し、最前線の少し後方まで彼らを運んだのです。久しい以前から準備されていたもののようで、前線の眠ったような村々の駅にしてはそのプラットフォームの長さが1kmほどもあり、平和な時代の人々の流れを考えても、とてもその長大さを説明できるものではなかった。

いよいよ戦火の火ぶたが切られ、騎馬兵が最新兵器の機関銃の前で次々と倒されてゆくと、彼らは戦争の主役から消えてしまいました。替わって登場したのは大砲と塹壕でした。

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