少し昔の頃。
その老人は決まって冬の木枯らしが吹きすさぶ、小雪まじりの日に決まって現れた。
年の頃なら恐らく70歳は超えていただろう。
伸び放題に伸びた頭髪と顎髭はちょっとした貫録を老人に与えていた。
うっすらと肋骨の筋が胸に浮き出た体は、肥満とは縁遠く、鍛え上げられた様子を窺わせる体躯だった。
どうしてそのような肋骨の様子が分かったのかと云えば、その老人の姿がちょっと変わっていたからだ。
どのように変わっていたのかと云うと、老人は赤フンドシ一枚を下半身に身に付けている以外に体を覆うものを何も着ていなかったのだ。
帽子もかぶっていなければ靴もはいていなかった。そして片手で赤い旗指しものを持っていた。その赤い旗には黒々とした大きな文字で
「健康のために笑いませう」
と記されていた。
そんな老人が街角に立って、大きな声を張り上げて「皆さん。健康のために笑いませう。ワッハッハッー。」と云うのだ。
もちろん拡声器など使ってはいない。
傍らを通り過ぎて行く人々は、チラリと奇異のまなざしで老人を眺めるだけで、すぐに視線を老人から避けるようにして、いつでも足早に駆け抜けてゆくだけだった。
ひとしきり、辻で大声を張り上げた後、老人は別の辻まで行って同じことを繰り返すのだった。
精神の病を病んでいるのだろう、と想像するのは簡単かもしれない。でも、僕には老人がそんな風にな人には見えなかった。
だから、ある日の事、意を決して、老人に話しかけてみた。
「どうしてこんな事をしているのですか? それに裸になるのなら、夏だけでいいのに、わざわざ寒い冬だけに、こんな事をしているのは?」
老人は嗄れた声で答えた。
「そりゃ、すべては健康のためだ。最近、街に笑い声が聞こえんようになってしもーたようでな。それに笑って生活していればいろいろ良い事があるんじゃ。ワッハッハッー。どうじゃ、お前さんも、ここで一緒に笑わんかの?」
僕は答えた。
「うーん。赤フンドシを着用するのは少し抵抗があるなぁ。でも笑うってのはいい事ですね。」
「ワシはな、笑い声こそが人の和を作るものだと信じておるのよ。」と答えた老人の声の迫力に今更ながら僕は内心驚いた。
「そういう事が確信できるようになったら、お供させていただきましょうかね。」を僕は冗談めかして云った。
「おおっ、待っとるよ。」そう老人は云ってから、その場を立ち去っていった。
老人の後ろ姿を見送りながら、信じる事なら何だってやれるんだ、ぼんやりと、そう思ってた。
その後も街角で、老人の裸の姿を見かける事があった。
ある年の春、道の向こうから身綺麗な紺色のスーツを身に着けた老人と行き違った。
老人は縁のある帽子を目深にかぶっていたので、僕からは老人の顔がみえなかったのだ。
「ひょっとすると、お前さん、この前の人じゃないかね?」老人にそう呼び止められて僕が振り向くと
「やっぱり、そうだ。二年前だったかな、この前話をしたのは?」そう云われた僕は
「確かそうですよ。それにしてもお元気そうで何よりです。赤フンドシ以外の姿を拝見するのは初めてなので、誰だかまったく分かりませんでしたよ。これからどちらへ?」
「ちょっと戦友会の集まりでな。そこで、例の『笑いの健康』をするのさ。ワッハッハッー。」そう云いながら、老人は去っていった。
その後もちょっとした事があったのだが、それは別の話。
日本の指導者に、赤フンドシで辻立ちをしてでも、信じる事を訴える胆力がおありかどうか???