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2009年4月14日火曜日

校舎の歴史

校舎の歴史
写真が三つあるので、どれがどれやら見当をつけるのが難しかったけれど、どうやら右の丸い縁の写真が瀬戸女学校、下の写真が瀬戸江西学校のようです。

江西学校は江西尋常小学校を南の方から見たものでしょうか。

左上の写真は一寸見当がつかないけれど、研正実科女学校で調べてみました。
明治二十八年創立。岡山市谷尻土橋にあり。別名、土橋女学校。花嫁修業のための学校だった。第二次大戦の激化とともに閉校になる。

さて、丸い縁の写真に焦点を絞ります。左に少し欠けて写っている塀のある建物は警察署官舎の一部で、やや東側から取られた写真です。右側が瀬戸女学校の建物で、明治の末に立てられたもの。そしてこの写真が作られた時代は大正の1-9年頃。この写真の後、生徒数が増えたのでしょう、大正10年頃に、この校舎の奥に大きな校舎が新築されています。

この校舎がどういう風になるのか調べてみました。窓の配置からして二教室。昭和3年に50メートル西へ移動。戦争中には他の教室は勤労奉仕で工場に変わっていたけれど、この建物はトイレに変わる。戦後、再び講堂として利用。昭和41年頃に解体。つごう60年近く働き続けた事になるなぁ。

2009年4月10日金曜日

備中造山古墳

造山古墳(つくりやまこふん)
Tsukuriyama kofun(Tsukuriyama burial mound)

Blooming cherry blossoms on the mound.

中高校時代、あちこちの古墳に行ってみたものです。そこで分かった事は古墳に行くなら春先の季節がいいという事でした。冬では寒いし、夏では蛇が怖い。秋でもいいのですが、古墳には桜が植えられている事が多いので花を楽しめるのです。備前浦間茶臼山古墳や吉備津神社裏の中山茶臼山古墳などですが、造山古墳にも桜がありました。
A guide map of Soja district.

同名の作山古墳(つくりやまこふん)が西の方にあります。今回は行きませんでした。案内板に従って東に向かいます。
The parking area is only 50 meters away to the east of the mound.

りっぱな駐車場がありました。
Going up the stone steps.

駐車場を下りて前方部の方へ続く石段を上ります。
A stone coffin on top of the square mound.

前方部には神社があり、石棺が置かれていました。案内板を見ると阿蘇の凝灰岩製だとか。どうやら「こうもり塚古墳」の石棺と勘違いしたまま記憶していたようですね。
Standing on the square mound and looking at the path leading to the round mound.
前方部から後円部を見ると、前方部に続く道が見えました。
これは案内板にある古墳の地形図です。古墳が大きすぎるので、なかなか全貌を1枚の写真に収める事ができませんでした。

備中国分寺

Bicchu Kokubunji is one of the temples having been erected by the ancient authority, a beautiful empress Koumyoshi. Many Kokubunji temples had vanished during a long while. The temple is rare case that has tossed about by angry waves of history and has survived.

 備中国分寺は未だに一度も訪れた事が無いと思っていました。でも、案内板を見てみると近くに「こうもり塚」があるというではないですか。「こうもり塚」ならば50年程前に来た覚えがあります。という事は、国分寺にも来たはず。
どうも印象が薄かったんでしょうね。国分寺の西に建つ五重塔を写真に収めました。桜が奇麗でした。そうそう、駐車場は裏手にあるんですねぇ。
国分寺から200m東に前方後円墳の「こうもり塚」があります。
Ancient Japanese burial mound has a characteritic shape. A round and square mound are united to form one unique shape. Koumori-Zuka is such an old burial mound, where is sited nearby Kokubunji temple.

道を歩いて行くと菜の花畑の向こうに古墳の横穴の入り口が見えます。案内板がありました。
In the early days of ancient tomb, structure of tomb is simple only digging a hole vertically into the mound. Then gradually changed to digging a cave into the side of a mound, just like Koumori-Zuka.

横穴を入ると鉄柵があり、その向こうに石棺がありました。あれま!いつの間にこんな鉄柵ができたのかな?
50年も経てばいろいろ変わるものです。その当時の記憶では石棺は阿蘇の凝灰岩で作られたと聞いた覚えがありました。えらく遠方から石を運んだものだなぁ、と感心した覚えがあります。でも、今回案内板の説明を読んでみると、近所の石を使ったと書いてありました。
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