久しぶりに虹を見かけたのでぼんやりと眺めていると、主虹の上に薄らと副虹が見えるではないですか。急いで写真を撮ってみたのですが、どのように工夫しても副虹見えないですね。残念です。
2015年8月31日月曜日
青いグッピー
最近1年程、青いグッピーを探しまわってきました。でも滅多にお目にかかれません。半年前に1匹だけ見つける事ができたのを最後とします。
で、久しぶりに出かけた事の無いペットショップまでグッピーを探しに行きました。一店目で青いグッピーを見つけたと思ったら黒のグッピーでした。2店目で尾がまだら模様になった青いグッピーがいましたんで購入し帰ってみて驚きました。尾が青くないのです。よくよく思い出してみると商品水槽は裏側から青いランプで照明されていました。それに尾が黄色まだらの青いグッピーは見た事がありませでしたし、、、。やられましたね。
で、久しぶりに出かけた事の無いペットショップまでグッピーを探しに行きました。一店目で青いグッピーを見つけたと思ったら黒のグッピーでした。2店目で尾がまだら模様になった青いグッピーがいましたんで購入し帰ってみて驚きました。尾が青くないのです。よくよく思い出してみると商品水槽は裏側から青いランプで照明されていました。それに尾が黄色まだらの青いグッピーは見た事がありませでしたし、、、。やられましたね。
2015年7月30日木曜日
「フレッツ光」の「光もっともっと割」の解約
●「フレッツ光」の「光もっともっと割」のオプション契約に加入して3年経過。一カ月間だけ違約金無しで解約できる期間ができた。この機会に他社の「ひかり契約」に転出(転用)を考えてみたんだけれど、回線速度が遅いという噂や、値段がそれほど安くもない、等々から「光もっともっと割」のオプション契約のみ解約しようとした顛末です。
●このオプション契約は期間の途中で解約しようとすると1〜3万円の違約金が発生するというとんでもない契約で、契約締結三年間経過した一カ月間だけ違約金無しで解約できるんだけれど、その後は自動的に契約が延長されるんです。携帯電話会社のやり口をパクった商売ですね。こんな契約は若い人ならばいいんですけれど、もっと先を見通した、老い先短い人専用の契約を設けるべきじゃないんですかね。
●他社の「ひかりサービス」に転出した場合に値段がどれだけ安くなるのかを比較するために「フレッツ光」の請求明細を調ようとしたんですが、無いんです。紙の請求書はいつの間にか廃止されていたんです。これも携帯電話会社のやり口をパクったんでしょうけど、請求明細サーバーなる物(「NTT myリビング」と云うもの)を作っておいてそこにログインして勝手に見てくれというわけです。でも簡単にはログインできません。そりゃそうです。知らないうちにIDとパスワードを書いた葉書が送られて来ていたんですから。運良く葉書を保存していましたので助かりました。
請求明細サーバーにログインして明細を眺めてみると「光もっともっと割」未適用と比較して他社の「ひかりサービス」の値段は少し安くなってますね。いづれの会社も一様に携帯電話と一緒に契約すると携帯電話料金の方を値引きす事になってるようです。
請求明細サーバーにログインして明細を眺めてみると「光もっともっと割」未適用と比較して他社の「ひかりサービス」の値段は少し安くなってますね。いづれの会社も一様に携帯電話と一緒に契約すると携帯電話料金の方を値引きす事になってるようです。
●さて、次に「光もっともっと割」のオプション契約を解除しようとしたんですが、出来ませんでした。いえ、不可能というのではないんです。オプション契約解除のためにはNTTのサーバー"CLUB NTT-WEST"にログインしなければならないんですが、その際にIDとパスワードを求められます。そんなIDとパスワードは心当たりが無かったので回線IDを入力して新規にIDを作成しようとしました。でも「登録済みです」という反応しか得られず二日間一歩も前進かなわず。登録したけれど忘れているんだろうというのが常識的な回答です。二日間家中を探し廻りましたが何も発見できません。こりゃ自分は認知症になったのかもしれん。医者いかかった方がいいのかもしれんと心配になってきました。
そんな時、偶然にも"CLUB NTT-WEST" のサイトに質問受付用のWEBメール送信サイトがありました。そこに状況を書き込んで送信すると半日もしないうちに返事がきました。そこで自分が認知症では無かった事が判明して安心しました。実はNTTの方で勝手にIDとパスワードを登録していたというのです。そしてどうやらIDとパスワードの連絡が無かった、というオチだったんです。今迄結構な数のサイトにログインしてきましたけれど、申請もしないのに勝手にIDとパスワードが作成されていたのには驚きを通り過ぎて呆れた口が塞がりませんでした。IDとパスワードを電子メールで送信してもらう事は禁止されているようなので、紙媒体の手紙経由で後日届くように手配してもらいました。
そんな時、偶然にも"CLUB NTT-WEST" のサイトに質問受付用のWEBメール送信サイトがありました。そこに状況を書き込んで送信すると半日もしないうちに返事がきました。そこで自分が認知症では無かった事が判明して安心しました。実はNTTの方で勝手にIDとパスワードを登録していたというのです。そしてどうやらIDとパスワードの連絡が無かった、というオチだったんです。今迄結構な数のサイトにログインしてきましたけれど、申請もしないのに勝手にIDとパスワードが作成されていたのには驚きを通り過ぎて呆れた口が塞がりませんでした。IDとパスワードを電子メールで送信してもらう事は禁止されているようなので、紙媒体の手紙経由で後日届くように手配してもらいました。
●で、後日、実際にログインしてみました。すると「光もっともっと割」のオプション契約の加入ボタンはあるのですが、すでに加入しているので「加入済み」になっているだけです。加入解除ボタンがどこにも見当たりません。すでに電話で解除を申し込んでいるので、問題ないとは思いますが、何があっても解除させないという鉄の意志を感じさせますね。
●その後5日程して、同じ「光もっともっと割」のオプション契約の加入ボタンを見に行くと、未加入に更新されておりました。
●
2014年12月25日木曜日
肉の薫製作り
薫製箱をプレゼントされてから薫製作りに凝るようになった。薫製は庭でするものと考えて、屋外用のガスバーナーを購入したのだが、薫製には弱火でないと一瞬のうちに木材チップが煙になって消えてしまう。かと云って弱火にすると少しの風でもガスの火が簡単に消えてしまう。だから室内のガスコンロで薫製を作るのが一番簡単だと気がついた。煙は思っていた程激しいものでは無く換気扇を廻せば対応できるものだったので。とはいえ新築の家などでは止めておいた方がいいかもしれない。
当初は魚、肉、ソーセージ、チーズ、芋などを薫製にしてみたが、味と薫製にかける手間から興味は次第に肉だけに移ってしまった。肉で最初に薫製にしたのが偶然にもイベリコ豚のあばら肉。薫製にすると豚肉がこれほど美味になるのかと驚いたけれど米国豚のあばら肉を薫製にしてみてそれが間違いだという事に気がついた。牛肉や鶏肉は薫製にするよりも普通に焼いた方がおいしいかった。だから最初は豚ロースを薫製に使っていた。もちろん特売品の日本豚です。でも、この薫製ってスーパーで売ってる薫製豚と大差が無いんです。で、最初のスペアリブ豚に戻ってしまいました。でもイベリコ豚のあばら肉ってどこにも売られてないんです。以下は日本豚のあばら肉を使った薫製の話です。
ネット情報から薫製のレシピを収拾して、その通りに作っていたんです。最初に塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶしてジップロックに封印(その際に各種調味料を加える)。そのまま冷蔵庫で一週間ねかせる。冷蔵庫から取り出した肉を塩抜きする(約六時間以上)。肉を半日かけて乾燥させてから、薫製にかける。が、正直云ってまずい。
次のように変更してみました。
塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶしてジップロックに封印(調味料は加えない)。あまり多量の塩を使っても意味ないので軽くまぶす方がいい。数時間で滲み出て来る塩と肉汁を捨てる。三回捨てれば充分。冷蔵庫に寝かせるのは2−3日で充分。
冷蔵庫から取り出した肉を塩抜き。
塩抜き前
塩抜き後
これは最初の塩加減によって三〜十六時間と大差が出るので必ず味見をする必要がある。塩抜き不十分で薫製作りに失敗すると分りますけどね。
塩抜き後、肉をキッチンペーパーでよく乾かします。肉を皿に並べて三温糖(砂糖でもいいかも)をまぶします。この時一緒にブラックペパーなどの調味料を加えます(むしろ薫製直前に加えた方がいいかも)。室温で数時間なじませます。この時にも砂糖汁が出ますので数回捨てます。これを冷蔵庫で1−2日寝かせます。
以上で薫製の準備ができました。肉を薫製箱に並べて60-80度の熱で30分程度乾燥させた後で薫製作業にかかります。木材チップはサクラかヒッコリーを使っています。薫製時間は3時間。これで砂糖味スペアリブ薫製が出来上がり。
●仕込みの最初の塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶす作業をズルして塩だけでも構いませが塩味ばかりでまろやかさが欠けた出来になります。岩塩でも天然塩でも工業塩でも同様の傾向です。
●仕込みの最初に胡椒などの調味料を加えても意味ありません。塩抜き作業で味がどこかに消えてしまいます。
●最初の仕込みとして肉を酒に漬けて柔らかくするのは止めておいた方がいいです。柔らかくなりませんし肉に酒の香りが残ってしまうので、酒が苦手な人には食べられない結果になるでしょう。
●最初の仕込みとして肉をパイナップルに漬けて柔らかくするのはありかもしれません。ただ、漬けこみ時間が問題です。夏場は1時間、冬場でも3時間以上はやらない方がいいかと。漬けすぎると肉ばかりでなく脂肪まで分離してきます。個人的には肉が柔らかくなり過ぎて食感が悪くなると思います。
●塩漬けで冷蔵庫にねかせる期間は一週間という意見が多いようですが、冬場でも三日間あれば充分です。冬場で24時間では塩分がうまく行き渡りません。48時間でなんとか可になり、72時間で充分という意味ていどにご理解いただければ。
●薫製前の肉にオリーブオイルを刷毛で塗ってます。その方が何となく味がよくなるような。
当初は魚、肉、ソーセージ、チーズ、芋などを薫製にしてみたが、味と薫製にかける手間から興味は次第に肉だけに移ってしまった。肉で最初に薫製にしたのが偶然にもイベリコ豚のあばら肉。薫製にすると豚肉がこれほど美味になるのかと驚いたけれど米国豚のあばら肉を薫製にしてみてそれが間違いだという事に気がついた。牛肉や鶏肉は薫製にするよりも普通に焼いた方がおいしいかった。だから最初は豚ロースを薫製に使っていた。もちろん特売品の日本豚です。でも、この薫製ってスーパーで売ってる薫製豚と大差が無いんです。で、最初のスペアリブ豚に戻ってしまいました。でもイベリコ豚のあばら肉ってどこにも売られてないんです。以下は日本豚のあばら肉を使った薫製の話です。
ネット情報から薫製のレシピを収拾して、その通りに作っていたんです。最初に塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶしてジップロックに封印(その際に各種調味料を加える)。そのまま冷蔵庫で一週間ねかせる。冷蔵庫から取り出した肉を塩抜きする(約六時間以上)。肉を半日かけて乾燥させてから、薫製にかける。が、正直云ってまずい。
次のように変更してみました。
塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶしてジップロックに封印(調味料は加えない)。あまり多量の塩を使っても意味ないので軽くまぶす方がいい。数時間で滲み出て来る塩と肉汁を捨てる。三回捨てれば充分。冷蔵庫に寝かせるのは2−3日で充分。
冷蔵庫から取り出した肉を塩抜き。
塩抜き前
塩抜き後
これは最初の塩加減によって三〜十六時間と大差が出るので必ず味見をする必要がある。塩抜き不十分で薫製作りに失敗すると分りますけどね。
塩抜き後、肉をキッチンペーパーでよく乾かします。肉を皿に並べて三温糖(砂糖でもいいかも)をまぶします。この時一緒にブラックペパーなどの調味料を加えます(むしろ薫製直前に加えた方がいいかも)。室温で数時間なじませます。この時にも砂糖汁が出ますので数回捨てます。これを冷蔵庫で1−2日寝かせます。
以上で薫製の準備ができました。肉を薫製箱に並べて60-80度の熱で30分程度乾燥させた後で薫製作業にかかります。木材チップはサクラかヒッコリーを使っています。薫製時間は3時間。これで砂糖味スペアリブ薫製が出来上がり。
●仕込みの最初の塩と砂糖を2:1の割合で混ぜたものを豚肉にまぶす作業をズルして塩だけでも構いませが塩味ばかりでまろやかさが欠けた出来になります。岩塩でも天然塩でも工業塩でも同様の傾向です。
●仕込みの最初に胡椒などの調味料を加えても意味ありません。塩抜き作業で味がどこかに消えてしまいます。
●最初の仕込みとして肉を酒に漬けて柔らかくするのは止めておいた方がいいです。柔らかくなりませんし肉に酒の香りが残ってしまうので、酒が苦手な人には食べられない結果になるでしょう。
●最初の仕込みとして肉をパイナップルに漬けて柔らかくするのはありかもしれません。ただ、漬けこみ時間が問題です。夏場は1時間、冬場でも3時間以上はやらない方がいいかと。漬けすぎると肉ばかりでなく脂肪まで分離してきます。個人的には肉が柔らかくなり過ぎて食感が悪くなると思います。
●塩漬けで冷蔵庫にねかせる期間は一週間という意見が多いようですが、冬場でも三日間あれば充分です。冬場で24時間では塩分がうまく行き渡りません。48時間でなんとか可になり、72時間で充分という意味ていどにご理解いただければ。
●薫製前の肉にオリーブオイルを刷毛で塗ってます。その方が何となく味がよくなるような。
2014年12月24日水曜日
パーコンの故障
半年程前に自作パーコンが壊れました。Core-i7 920, GA-EX58-UD5 マザーボードで、5年程前に組み上げたものです。最初はビデオカード( GTX-480 )の不調でした。ビデオカードのファンの回転音が頻々と異様に激しくなるようになりました。ある日 GTX-480 は動作しなくなってしまったため別のビデオカードに交換しました。すると BIOS 起動時に HDD が接続されていないというメッセージが表示されるようになりました。実際 SATA 接続していた複数の HDD は認識されなくなりました。でも1台だけは不思議にも Windows 7 を立ち上げる事ができたのです。
そのまま3ヶ月ほど経過したある日、そのパーコンを shutdown しすると何だか物の焦げたように臭いがしました。翌日いくら起動ボタンを押してもウントモスンとも云わなくなってました。どうやらマザーボードが死んだようです。ビデオカードの不調を放置していたためにマザーボードの故障を招いてしまったと深く反省する結果になりました。
その後1ヶ月して、今度は別のパーコンが壊れました。 Core-i7 2600K, GA-Z68X-UD3-B3 マザーボードで、4年程前に組み上げたものです。これは起動ボタンを押しても、一瞬だけファンが回転するものの、すぐに動作を停止してしまいます。電源の故障じゃないのかな?と考えて、先に壊れていたパーコンから電源を取り出して交換してみる事にしました。取り出した電源ボックスを開けてみると、中に大量のワタ屑のような埃が詰まっていました。これを綺麗に取り除き Core-i7 2600K マシンの電源と交換しましたところ、無事に起動ボタンに反応して動作を開始するようになりました。
それほど酷使したわけでもないのに4年程で壊れる電源ってどうなってるんでしょう?
今年は本当にいろんな物が壊れて交換が必要になりました。
そのまま3ヶ月ほど経過したある日、そのパーコンを shutdown しすると何だか物の焦げたように臭いがしました。翌日いくら起動ボタンを押してもウントモスンとも云わなくなってました。どうやらマザーボードが死んだようです。ビデオカードの不調を放置していたためにマザーボードの故障を招いてしまったと深く反省する結果になりました。
その後1ヶ月して、今度は別のパーコンが壊れました。 Core-i7 2600K, GA-Z68X-UD3-B3 マザーボードで、4年程前に組み上げたものです。これは起動ボタンを押しても、一瞬だけファンが回転するものの、すぐに動作を停止してしまいます。電源の故障じゃないのかな?と考えて、先に壊れていたパーコンから電源を取り出して交換してみる事にしました。取り出した電源ボックスを開けてみると、中に大量のワタ屑のような埃が詰まっていました。これを綺麗に取り除き Core-i7 2600K マシンの電源と交換しましたところ、無事に起動ボタンに反応して動作を開始するようになりました。
それほど酷使したわけでもないのに4年程で壊れる電源ってどうなってるんでしょう?
今年は本当にいろんな物が壊れて交換が必要になりました。
2014年12月22日月曜日
NaviStudio5
今春まで使っていたカーナビはトヨタ営業所純正ではありながら京阪神方面で、途中で案内を放棄し無言になってしまう事がしばしばありました。また、購入時点からタッチパネルの一部は反応しにくかったんですが、昨秋の点検時にタッチパネルが壊れてますよと云われて、さすがに目が覚めました。メーカー品カーナビにはアンタッチャブルだと。
近所のカーショップで幾つかの条件をテストした製品を探してみました。
(1) 出雲大社まで道案内できる事。これ、やってくれなかったんですよね。
(2) 二階建ての道路で、どの階を走行しているのか認識できる事。
(3) 高速道路に入るインターチェンジを指定できる事。
(3)は目の前にある阪神高速に入りたいのに、中国自動車道へと案内されるというひどい目に遭った経験からです。この条件で満足できるカーナビに付け替えて、古いカーナビは一応たたき壊して下さいとお願いしておきました。
この新しいパイオニアのカーナビ、向こう3年間無料で道路情報の更新データをサーバーマシンからWindowsマシンに接続した 'SD Card' にダウンロードして、カーナビのデータを最新に保てるんです。これまでに数回小規模のアップデータが公開された事がありましたけれど、無事にデータ更新を済ませる事ができました。そして、ついに最初のメージャーアップデートがありました。データ量は8GBほど。それまでと同様の手段でダウンロードしたデータを 'SD Card' に書き込んで行くんですが40%を越えたあたりで必ずエラー発生によりデータを 'SD Card' に書き込み失敗します。
こういう場合は、元データが悪いか 'SD Card' が悪いかに決まってます。でも元データは公開されてから既に1ヶ月以上経過しており、データに問題があれば、すぐに訂正されたはずです。そこで 'SD Card' を交換したり、新品にしたり。でもエラーは続きます。1回のデータダウンロードで、それが失敗したと判明するまでに1時間ほどかかりましたので、20回の失敗で20時間ほど無駄な時間を過ごしました。
ここまでで、ははん、と見当のついた人は偉い!
ふと思いついて 'SD Card Reader' を古い物に交換してみました。これで、エラーは出なくなりました。
この粗悪品の名称は ELECOM MR-A39HWHF1 made in China でした。もっときちんと壊れてくれれば苦労しなくて済んだのに、、、。
近所のカーショップで幾つかの条件をテストした製品を探してみました。
(1) 出雲大社まで道案内できる事。これ、やってくれなかったんですよね。
(2) 二階建ての道路で、どの階を走行しているのか認識できる事。
(3) 高速道路に入るインターチェンジを指定できる事。
(3)は目の前にある阪神高速に入りたいのに、中国自動車道へと案内されるというひどい目に遭った経験からです。この条件で満足できるカーナビに付け替えて、古いカーナビは一応たたき壊して下さいとお願いしておきました。
この新しいパイオニアのカーナビ、向こう3年間無料で道路情報の更新データをサーバーマシンからWindowsマシンに接続した 'SD Card' にダウンロードして、カーナビのデータを最新に保てるんです。これまでに数回小規模のアップデータが公開された事がありましたけれど、無事にデータ更新を済ませる事ができました。そして、ついに最初のメージャーアップデートがありました。データ量は8GBほど。それまでと同様の手段でダウンロードしたデータを 'SD Card' に書き込んで行くんですが40%を越えたあたりで必ずエラー発生によりデータを 'SD Card' に書き込み失敗します。
こういう場合は、元データが悪いか 'SD Card' が悪いかに決まってます。でも元データは公開されてから既に1ヶ月以上経過しており、データに問題があれば、すぐに訂正されたはずです。そこで 'SD Card' を交換したり、新品にしたり。でもエラーは続きます。1回のデータダウンロードで、それが失敗したと判明するまでに1時間ほどかかりましたので、20回の失敗で20時間ほど無駄な時間を過ごしました。
ここまでで、ははん、と見当のついた人は偉い!
ふと思いついて 'SD Card Reader' を古い物に交換してみました。これで、エラーは出なくなりました。
この粗悪品の名称は ELECOM MR-A39HWHF1 made in China でした。もっときちんと壊れてくれれば苦労しなくて済んだのに、、、。
2014年12月6日土曜日
戦火の馬
「戦火の馬」という第一次世界大戦を舞台にした映画を観ました。最後の方は時間が無かったのか、それとも物語が尽きたのか、省略があったせいで嘘っぽくなってしまい興醒めする場面もありました。とはいえ馬が重要な戦略品だったのは間違いなかったのです。
政治家達は戦争への危惧に心を奪われ、一方で戦争参加国の首都では一般大衆が宣戦布告を熱狂的に歓迎した。通りを埋め尽くした群衆は叫び、微笑み、そして愛国歌を歌った。セント・ペテルスブルグではフランスの外交官モーリス・パレオローグが冬の宮殿広場への道すがら次のような光景を目撃した。「旗や吹き流しやロシア皇帝のイコンや肖像画を手にした無数の群衆が、ロシア皇帝がバルコニーに登場するや、すぐに全員が膝をついてロシア国歌を歌った。この時、膝をついた数千人の群衆にとって、ロシア皇帝こそ、軍事的・政治的・宗教的な意味で人々の指導者であり、肉体と魂の絶対的支配者、神に指名された真の独裁者だった。」その日は8月2日だった。8月1日にもババリア王国の首都、ミュンヘンのオデオンズプラッツに群衆が集まり、宣戦布告を聞こうとした。その中に若き日のアドルフ・ヒットラーがいた。彼は「その瞬間の熱狂にうち奮えている自分が誇らしかった。それから私は膝をついて、このような時代に自分を生まれさせてくれた神に心よりの感謝を捧げたのだ。」その頃、ベルリンでは、灰色の戦闘服に身を包んだカイザーがバルコニーに現れ、騒然とした群衆に向かって次のように言った。「ドイツに運命の時が訪れたのだ。我が国を狙う国々からドイツ防衛のため我々は立ち上がるのだ。戦いの剣は我々の手に委ねられた。皆に命ずる。教会へ行き、我が軍に神のご加護を祈るのだ。」ベルリン大聖堂では牧師が礼拝に集まった人々に詩編130番の朗唱を主導し、オラニエン通りのシナゴーグではラビが勝利の祈りを主導した。8月5日にはロンドンでも同じような状況が発生した。パリでは東部と北部へ動員される連隊の出発式があった。歩兵連隊の将校は次のように記している。
「午前6時、列車は汽笛を鳴らす事なくゆっくりと駅を出発した。くすぶっている火が突如うなりを上げて火炎を発したかのような壮大などよめきが、幾多の人々の口々からフランス国歌のラ・マルセイエーズの轟が巻き起こった。兵士達は全員が汽車の窓際に立ち帽子を振った。それに応えて線路上から、駅のプラットフォームから、隣の汽車の窓から皆々が手を振った。集まった群衆は全ての駅、柵の向こう側、道路に沿った家々の窓に立っていた。”フランス万歳。軍人さん万歳。”と叫ぶ声が至る所で聞こえ、人々はハンカチや帽子を振っていた。女性達は道行く私達の隊列にキスや花を投げかけてくれた。若者達は”さようなら!またね!”と叫んでいた。」
すぐに多くの若者達に召集令状が届けられた。そのような令状には無縁の予備役兵にも動員命令が出された。大抵の軍隊では出頭予定日までの幾日間は家族や雇い主に別れを告げる「自由日」となっていた。フランスの偉大なる歴史家、リチャード・コッブは次のように書いている。「完璧な異邦人だったんじゃないかな。というのも、パリっ子が全員一夜にして不思議の国のアリスの中の登場人物みたいになっちまってね。異次元のカレンダーの中で日々をトランプに明け暮れていたのさ。”今日は何の日だい?”すると別の奴が”俺は一日目さ(新兵狩りに遭っちゃったみたいさ)。”、”俺は九日目さ(不運だぜ、そん時までにゃ、全てが終わっちまってるだろうから、お前さんにゃ何の楽しみも残らないって寸法さ)。”、”俺は三日目さ。だからあまり長く待たなくてもいいのさ。”、”俺は十一日目さ(お前さんは、そんなに早くベルリンを落せやしまい)。” ドイツ軍の予備役士官候補生は、どのようにして入隊までの日々を過ごすのかを、もっと散文的に説明している。その人物はアントワープ在住のビジネスマンで、彼が動員二日目に最寄りの野戦砲兵連隊に出頭し上申しなければならない内容とは次のようなものでした。
八月三日に自分がブレーメンに到着した時、家族は半狂乱でした。それは彼らがベルギーが陥落し私が銃弾に倒れたものと思っていたからでした。八月四日、予備役兵として軍に出頭した時、自分は予備の野砲第18連隊に所属しているのだと告げられました。その連隊はハンブルグから約75マイルの距離にあるベーレンフェルドにありました。家族は自分達の集合場所の建物に近寄る事はできませんでした。自分はできるだけ素早く、近くの子供に家族への伝言を託しました。家族は列車の駅のプラットホームにも立ち入る事が出来ませんでした。ただ、自分達に葉巻や煙草やキャンディーを手渡す赤十字の職員を除いては。兵員輸送列車の中でボートやテニスを一緒にやった友人達と再会する事が出来て幸運でした。八月六日、自分が今まで着た事のない灰色の制服が支給されました。その色は緑色を帯びた灰色で、くすんだ色のボタンが付けられていました。ヘルメットには灰色の布が被せられていました。それはヘルメットの上にある飾りが太陽の光を反射させないようにするための処置でした。長い騎乗靴は茶色で大変に重いものでした。兵士は全員、大抵の将校も予備役でしたが、司令官は正規の将校でした。たたき上げ将校は全員正規兵でしたが、兵馬は予備役でした。馬主は、狩猟家やサラリーマンや農民でしたが、彼らは定期的にそれを報告する義務があり、軍はいつでも、どこにどんな馬がいるのかを把握していたのです。
人間と同様に馬も八月の最初の一週間でヨーロッパ中から何十万頭という数がかき集められていました。小規模とされる英国の陸軍ですら、騎兵用、野砲の牽引馬、あるいは兵員輸送用の荷馬車のために165,000頭の馬が集められたのです。オーストリア軍は600,000頭、ドイツ軍は715,000頭、ロシア軍に至っては24の騎兵師団に100万頭を超える馬が集められたのです。1914年当時の軍隊というものは、ナポレオンの頃と同程度に兵馬を必要としていたのです。担当将校達は馬と兵士の必要割合を兵士3人に対して馬1頭程度と算出していました。第12ブランデンブルグ近衛連隊の予備役将校だったウォルター・ブルームはシュッツガルトへの動員命令を受け取ると、フランス国境のメッツ行きの汽車で荷物を発送する前に「トランクと茶色の雑嚢と馬具類の入った2個の箱に”軍需用荷物・速達”と書かれた赤いラベルを貼付け」て彼の所有する2頭の馬用に出来る限りの荷物を鞄に詰め込んだのです。
列車は1914年に戦争に行った全ての人々の記憶に刻まれているものでした。ドイツ参謀本部の鉄道部門は動員令の頃には11,000台の列車の時刻表を作成し、8月2日から18日の間だけでもライン川に架かるホーエンゾレルン橋を最低でも54両編成の貨車2,150台が通過しました。フランスの主要な鉄道会社、Nord, Est, Quest, PLM, POMは1912年5月以後、兵員動員のために7,000両の列車を用意する計画がありました。戦争開始に向けて多くの物が列車で集められたのです。
ムランからパリに入ってきた旅行者は、動力部を外され空になって動かない列車の異様な光景に目を奪われたものだ。時としてそれは様々な貨車を連結したものだったりしたのだが、別の会社の貨車が連結されていたりしており、旅客用貨車は護衛用貨車に連結され、それら多くの貨車に横にはチョークで印が描かれていたが、その全旅程セーヌ川からマルヌ川の県庁所在地を経て列車がリヨン駅に近づくまで、ひたすら我慢しなければならなかった。同じように奇妙な光景はフランス北部の旅行者達に目撃されている。それはクレール駅にある無数の側線に煙を上げる事も無く停車させられた何百ともつかぬ機関車の姿だった。
そのような列車が長く放置されているわけがありませんでした。すぐに列車は動きだして何十万人もの若者を詰め込み、時速10から20マイルで走行し退屈な距離を進んだかと思えば不意に停車し、最前線の少し後方まで彼らを運んだのです。久しい以前から準備されていたもののようで、前線の眠ったような村々の駅にしてはそのプラットフォームの長さが1kmほどもあり、平和な時代の人々の流れを考えても、とてもその長大さを説明できるものではなかった。
いよいよ戦火の火ぶたが切られ、騎馬兵が最新兵器の機関銃の前で次々と倒されてゆくと、彼らは戦争の主役から消えてしまいました。替わって登場したのは大砲と塹壕でした。
政治家達は戦争への危惧に心を奪われ、一方で戦争参加国の首都では一般大衆が宣戦布告を熱狂的に歓迎した。通りを埋め尽くした群衆は叫び、微笑み、そして愛国歌を歌った。セント・ペテルスブルグではフランスの外交官モーリス・パレオローグが冬の宮殿広場への道すがら次のような光景を目撃した。「旗や吹き流しやロシア皇帝のイコンや肖像画を手にした無数の群衆が、ロシア皇帝がバルコニーに登場するや、すぐに全員が膝をついてロシア国歌を歌った。この時、膝をついた数千人の群衆にとって、ロシア皇帝こそ、軍事的・政治的・宗教的な意味で人々の指導者であり、肉体と魂の絶対的支配者、神に指名された真の独裁者だった。」その日は8月2日だった。8月1日にもババリア王国の首都、ミュンヘンのオデオンズプラッツに群衆が集まり、宣戦布告を聞こうとした。その中に若き日のアドルフ・ヒットラーがいた。彼は「その瞬間の熱狂にうち奮えている自分が誇らしかった。それから私は膝をついて、このような時代に自分を生まれさせてくれた神に心よりの感謝を捧げたのだ。」その頃、ベルリンでは、灰色の戦闘服に身を包んだカイザーがバルコニーに現れ、騒然とした群衆に向かって次のように言った。「ドイツに運命の時が訪れたのだ。我が国を狙う国々からドイツ防衛のため我々は立ち上がるのだ。戦いの剣は我々の手に委ねられた。皆に命ずる。教会へ行き、我が軍に神のご加護を祈るのだ。」ベルリン大聖堂では牧師が礼拝に集まった人々に詩編130番の朗唱を主導し、オラニエン通りのシナゴーグではラビが勝利の祈りを主導した。8月5日にはロンドンでも同じような状況が発生した。パリでは東部と北部へ動員される連隊の出発式があった。歩兵連隊の将校は次のように記している。
「午前6時、列車は汽笛を鳴らす事なくゆっくりと駅を出発した。くすぶっている火が突如うなりを上げて火炎を発したかのような壮大などよめきが、幾多の人々の口々からフランス国歌のラ・マルセイエーズの轟が巻き起こった。兵士達は全員が汽車の窓際に立ち帽子を振った。それに応えて線路上から、駅のプラットフォームから、隣の汽車の窓から皆々が手を振った。集まった群衆は全ての駅、柵の向こう側、道路に沿った家々の窓に立っていた。”フランス万歳。軍人さん万歳。”と叫ぶ声が至る所で聞こえ、人々はハンカチや帽子を振っていた。女性達は道行く私達の隊列にキスや花を投げかけてくれた。若者達は”さようなら!またね!”と叫んでいた。」
すぐに多くの若者達に召集令状が届けられた。そのような令状には無縁の予備役兵にも動員命令が出された。大抵の軍隊では出頭予定日までの幾日間は家族や雇い主に別れを告げる「自由日」となっていた。フランスの偉大なる歴史家、リチャード・コッブは次のように書いている。「完璧な異邦人だったんじゃないかな。というのも、パリっ子が全員一夜にして不思議の国のアリスの中の登場人物みたいになっちまってね。異次元のカレンダーの中で日々をトランプに明け暮れていたのさ。”今日は何の日だい?”すると別の奴が”俺は一日目さ(新兵狩りに遭っちゃったみたいさ)。”、”俺は九日目さ(不運だぜ、そん時までにゃ、全てが終わっちまってるだろうから、お前さんにゃ何の楽しみも残らないって寸法さ)。”、”俺は三日目さ。だからあまり長く待たなくてもいいのさ。”、”俺は十一日目さ(お前さんは、そんなに早くベルリンを落せやしまい)。” ドイツ軍の予備役士官候補生は、どのようにして入隊までの日々を過ごすのかを、もっと散文的に説明している。その人物はアントワープ在住のビジネスマンで、彼が動員二日目に最寄りの野戦砲兵連隊に出頭し上申しなければならない内容とは次のようなものでした。
八月三日に自分がブレーメンに到着した時、家族は半狂乱でした。それは彼らがベルギーが陥落し私が銃弾に倒れたものと思っていたからでした。八月四日、予備役兵として軍に出頭した時、自分は予備の野砲第18連隊に所属しているのだと告げられました。その連隊はハンブルグから約75マイルの距離にあるベーレンフェルドにありました。家族は自分達の集合場所の建物に近寄る事はできませんでした。自分はできるだけ素早く、近くの子供に家族への伝言を託しました。家族は列車の駅のプラットホームにも立ち入る事が出来ませんでした。ただ、自分達に葉巻や煙草やキャンディーを手渡す赤十字の職員を除いては。兵員輸送列車の中でボートやテニスを一緒にやった友人達と再会する事が出来て幸運でした。八月六日、自分が今まで着た事のない灰色の制服が支給されました。その色は緑色を帯びた灰色で、くすんだ色のボタンが付けられていました。ヘルメットには灰色の布が被せられていました。それはヘルメットの上にある飾りが太陽の光を反射させないようにするための処置でした。長い騎乗靴は茶色で大変に重いものでした。兵士は全員、大抵の将校も予備役でしたが、司令官は正規の将校でした。たたき上げ将校は全員正規兵でしたが、兵馬は予備役でした。馬主は、狩猟家やサラリーマンや農民でしたが、彼らは定期的にそれを報告する義務があり、軍はいつでも、どこにどんな馬がいるのかを把握していたのです。
人間と同様に馬も八月の最初の一週間でヨーロッパ中から何十万頭という数がかき集められていました。小規模とされる英国の陸軍ですら、騎兵用、野砲の牽引馬、あるいは兵員輸送用の荷馬車のために165,000頭の馬が集められたのです。オーストリア軍は600,000頭、ドイツ軍は715,000頭、ロシア軍に至っては24の騎兵師団に100万頭を超える馬が集められたのです。1914年当時の軍隊というものは、ナポレオンの頃と同程度に兵馬を必要としていたのです。担当将校達は馬と兵士の必要割合を兵士3人に対して馬1頭程度と算出していました。第12ブランデンブルグ近衛連隊の予備役将校だったウォルター・ブルームはシュッツガルトへの動員命令を受け取ると、フランス国境のメッツ行きの汽車で荷物を発送する前に「トランクと茶色の雑嚢と馬具類の入った2個の箱に”軍需用荷物・速達”と書かれた赤いラベルを貼付け」て彼の所有する2頭の馬用に出来る限りの荷物を鞄に詰め込んだのです。
列車は1914年に戦争に行った全ての人々の記憶に刻まれているものでした。ドイツ参謀本部の鉄道部門は動員令の頃には11,000台の列車の時刻表を作成し、8月2日から18日の間だけでもライン川に架かるホーエンゾレルン橋を最低でも54両編成の貨車2,150台が通過しました。フランスの主要な鉄道会社、Nord, Est, Quest, PLM, POMは1912年5月以後、兵員動員のために7,000両の列車を用意する計画がありました。戦争開始に向けて多くの物が列車で集められたのです。
ムランからパリに入ってきた旅行者は、動力部を外され空になって動かない列車の異様な光景に目を奪われたものだ。時としてそれは様々な貨車を連結したものだったりしたのだが、別の会社の貨車が連結されていたりしており、旅客用貨車は護衛用貨車に連結され、それら多くの貨車に横にはチョークで印が描かれていたが、その全旅程セーヌ川からマルヌ川の県庁所在地を経て列車がリヨン駅に近づくまで、ひたすら我慢しなければならなかった。同じように奇妙な光景はフランス北部の旅行者達に目撃されている。それはクレール駅にある無数の側線に煙を上げる事も無く停車させられた何百ともつかぬ機関車の姿だった。
そのような列車が長く放置されているわけがありませんでした。すぐに列車は動きだして何十万人もの若者を詰め込み、時速10から20マイルで走行し退屈な距離を進んだかと思えば不意に停車し、最前線の少し後方まで彼らを運んだのです。久しい以前から準備されていたもののようで、前線の眠ったような村々の駅にしてはそのプラットフォームの長さが1kmほどもあり、平和な時代の人々の流れを考えても、とてもその長大さを説明できるものではなかった。
いよいよ戦火の火ぶたが切られ、騎馬兵が最新兵器の機関銃の前で次々と倒されてゆくと、彼らは戦争の主役から消えてしまいました。替わって登場したのは大砲と塹壕でした。
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